音楽の森から 長女レモンの歩み
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長女レモンの歩み

初めてのフルートの発表会 タファネル作曲「アンダンテ パストラル」はこちら
ピアノ曲「ノクターン嬰へ長調作品15-2」はこちらです。







   ヤマハの3歳児ランド・幼児科

 3歳児ランドは7〜8人のグループレッスンで、音楽を聞いたり、紙芝居を読んでいただいたり、歌をうたって1時間。
はっきり言って、あまり喜ばなかった… 特に大きい音、怖い音を嫌がった。



 幼児科は高さ調節の出来るレッスン用のエレクトーンを使ってのグループレッスン。
簡単な両手奏、音あて、リズムトレーニング、歌唱などがカリキュラムでしたが、リズムトレーニングを極端に嫌がり、途中で泣いてしまうこともしばしばありレッスンに行くのを渋っていました。
泣かれると弱いので何度も辞めようかと思ったけれど、2年間という期間があるので、とりあえず幼児科だけは修了しようと、嫌がるレモンを引きずってレッスンに行きました。

 レッスンでは消極的であまり声を出さなかったのですが、和音あて、単音あてなどは本人が分かっているかどうか不明でしたが、演奏は初見で簡単に弾けてしまうので器用な子だと思っていました。

 「おひげのド」,「ぶらさがりのレ」,「くしだんごのミ」,「サンドイッチのファ」と習ったと習いました。




1989年4月23日

(音更町文化センター)
修了コンサートで,
3歳児ランドグループで出場
「ようちえんのおともだち」
「ことりのうた」
振り付きで歌いました。
 
 1991年4月

(音更町文化センター)
幼児科の修了コンサート
「ねえねえおじいさん」
「ライオンの行進」


   ヤマハのジュニア科&山本ピアノ教室

 ヤマハは幼児科でやめて個人レッスンに移ろうと考えていましたが、友人の紀ちゃんが「次のジュニア科での様子を見てからやめても遅くはないと思うよ。先生や仲間がかわると雰囲気も違うから」と教えてくれたので、別の先生の教室へ。
同時に、紀ちゃんの音大の同級生の山本先生をご紹介していただきました。

レモンと同じ年頃の子を持つ山本先生は子どもの扱いが上手で、初めてのマンツーマンでのレッスンが気に入ったレモンもせっせと練習を重ねた事でピアノを弾く事に自信がつき、グループでのレッスンも順調でした。

 ヤマハと個人の教室、両方通わせてみてレモンに合っていると思う方を続けるつもりでしたが、どちらにも喜んで通い急速に上達した2年間でした。

山本先生の教室では「バイエル」と「夢見るピアニスト」と「バーナム」を使いレッスン。
1年間でバイエル修了、2年目は「子どものツェルニー」と「ブルグミュラー」を。

 このころ私は,「ピアノが上手」とはどういう事なのかについてとても疑問に感じていました。
譜読みが得意で、指がよく動くレモンはどんどん曲をあげていくけれど、音楽とはそれだけでは無いはずだと思っていました。

 ジュニア科は、まじめに練習をする女のコばかり4人のグループ。
普通は出場しないJOCにもグループの子4人全員が出られる程充実したレッスンでした。

 ジュニア科は2年終了するととアドバンスコースへ進みます。
グループと個人の併用レッスンとなり、個人はヤマハの先生でなければなりません。

だいぶ迷いましたが、もう少しヤマハに残ろうと、山本先生の教室をやめました




1991年9月15日

山本ピアノ教室発表会
中田喜直「悲しいワルツ」

 1992年9月27日

ジュニア・フェスティバル出場
El-un 「ガラガラへびがやってくる」 
 1993年3月7日

JOCの帯広地区フロアー・
コンサート出場。演奏曲は
自作曲「夜のゆうえんち」


 1993年3月

グレード9級取得 




  ジュニアアドバンス科・アドバンス上級科・アンサンブル特別コース


 レモンが幼児科に入ったときの入講式では200人くらいはいたと思うけど,その4年後のアドバンスまで続いた子は2クラスの10数名のみでした。
節目ごとに1人2人と個人レッスンに移っていきました。

アドバンス・グループではたまにレッスンを見るくらいでしたので、ほとんど記憶が残っていません…



レモンの運命まで変わってしまった気がする・・
          
 魔法使いのYUMI先生


 個人レッスンのD先生は、お若いけれど立派な実績のある先生で,独自の教え方でした。
小学2年になったばかりでしたがエチュードはそれなりに進んでいたので、元気よく先生のお教室に通う予定でしたが、そのあまりの厳しさに大泣きの日々が続きました。

 例えば入門半年後にあった発表会の曲「道化師」はレモンにとっては一日あれば弾けてしまう曲。ところが先生は「ちゃんと考えて弾いたらそうではないでしょ。」と音の出し方を徹底的に指導。

 例1,アクセントが付いた音をきつくならずはっきり出す。
 例2,スタッカートのフレーズをふくらませて歌う
 例3,左手(伴奏)は今だしている強さの3分の1の大きさに!
 例4,フレーズの終わりはおさまるように弾く,等々。

 それまで何も考えずにただはつらつと弾いていたレモンには、何をどうしたら先生の言うとおりに弾けるのかは全く分からず,右往左往の練習です。
要求はするけれど教えすぎない先生の前で,同じ失敗と何もかわらない演奏をする日々が続きます。
当然、先生の厳しい声が・・・

この時、お教室には同じ年齢の子が2人いて、その子たちの演奏がとても参考になりました。右に書いたように、とにかく人前で弾く機会が多かったので、出場するだけではなく他の子の演奏をよく聴き、よく見てコツを掴もうとしていました。

 結局このD先生には丸3年間ご指導いただきました。
具体的には「音の出し方」と「フレーズの歌い方」を学んだのですが、考えている余裕はなく何とか先生の要求にこたえようと必死になっていました。
そして先生の言うとおりに弾くと,どんどん演奏が素晴らしくなるのを実感していたので本人も不思議だったようです。

 この3年間が決定的にレモンを変えました。
D先生から離れてみると、音楽に対して主体的な考えをするようになっていて、ピアノには一人前の考えで向かっていました。(演奏がスゴイというのではありませんよ・笑)


我が家ではYUMI先生のことを「魔法使い」とおよびしていました(笑)



1993年11月28日

YUMI先生教室発表会
カバレフスキー
「ワルツ」,「道化師」



1994年1月30日

JOCの帯広地区フロアー・コンサート
自作曲「変奏曲」


1994年3月27日

JOCの帯広地区コンサート出場。
自作曲「変奏曲」


1994年5月22日

楽器店主催発表会
スピンドラー「ソナチネ」
 
   初めてのコンクール


 小学3年の時に、ピティナ帯広地区予選に参加しました。
何度かコンクールは聴きにいったことがありますが、参加は初体験です。

 ドキドキドキドキ・・・
D先生に習い初めて1年も経っていなかったので、理解できないまま、不十分なままでしたが、何とか予選は通過しました。
ところが、この時一緒に参加した同じ学年3人のうち、ひとりだけが優良賞(次点)でした。講評では、音が小さくてはいけないとの指摘があり、D先生の生徒の多くは辛い点が付けられました。

 次の本選に向けては音量を考えたレッスン。
でも、「鍵盤を叩くな」「力任せに弾くな!」と言われながらも音量を出すのは至難の業。
相変わらず、分からないままのレモンです。

 ちなみに、ただ一人本選会に出場出来なかったCちゃん(実は3人の中では一番上手だった)は、急遽、地元のもう一つのコンクールに出場して、短い期間の練習にもかかわらず金賞をもぎ取ったので、みんなで「Cちゃんの根性勝ち!」と褒め称えました。




    大失敗の経験

ピティナの本選会は釧路市民文化会館でした。
ここは私の実家の近くなので、おばあちゃんも楽しみに見に来ました。

 まだ、D先生の求めることが分からないままだったので、本選の練習は出場が決まってからやっと譜読みを始めましたが、やはり無理がありました。
 1曲目の「アンダンテ」はよく弾けましたが、2曲目「タランテラ」は途中でミス!
本番に強く、ステージの上で失敗したことがないレモンには衝撃だったらしく、その後はボロボロに…。

この本選会で、D先生の生徒で賞を貰えなかったのはレモンだけでした。
悔しさで涙が止まらないレモンに、入賞した子に拍手をさせるのは忍びなく、先生にお願いしてひと足早く会場を出ました。

今なら笑って話せますが、瞬間の芸術であるピアノの厳しさを、ホンの少し知ったコンクール。レモン、小学3年の夏の想い出です。



  再びチャレンジ

 初めてのコンクールのあとの一年間は、ひたすら練習に明け暮れた一年でした。
小学4年になり、再びピティナB級に出場。

 予選では、課題曲が易しく感じられるほど落ち着いた演奏をして入賞しました。
本選会では、1年前と同じ会場です。
出番になり控え室に向かうレモンに
「大丈夫!あなたはとってもよく弾けている。もし、ミスをしても、あわてないで立ち直ってね。」と声をかけました。

 本番では・・
本人いわく「ピアノに向かったら、曲のことだけが頭に浮かび、他の事は何も考えずに弾けたよー。弾き終わってお辞儀をするときに、すっごく恥ずかしくなって、逃げて退場したかった!」と、元気な声。
私の耳にも、実力以上の演奏をしたように聞こえるほどの出来映えでした。

 このときは第2位で、特別賞と全国大会出場のおまけも付いてきました。
1年前、泣きじゃくるレモンに慰める言葉も見つからなかったおばあちゃんが、一番喜んでくれました。



1994年6月26日

ピティナ帯広地区予選
スピンドラー「ソナチネ」
カバレフスキー「ギャロップ」
優秀賞・本選会出場



1994年8月7日

ピティナ北日本道東地区本選会
T.A.アルネ「アンダンテ」
ツィルヒャー「タランテラ」



1994年10月30日

ジュニア・フェスティバル出場
El-un 「ディズニーメドレー」



1994年12月25日

D先生教室発表会
チャイコフスキー
「ワルツ」,「ひばりの歌」




1995年2月5日

JOCの帯広地区フロアー・コンサート
自作曲 連弾「スペインの青い風」
共演者 あいちゃん



1995年6月18日
ピティナ帯広地区予選
勝毎ホール
モーツァルト
「メヌエット ヘ長調KV5」、
ハチャトゥリアン「小さな歌」
優秀賞・本選会出場



1995年8月3日
ピティナ北日本道東地区本選会
釧路市民文化会館
キルンベルガー「ブーレ」
クーラック「魔女たちの踊り」

第2位・特別賞・
全国大会出場



    全国大会出場


 全国大会は8月27日でした。
北海道は8月20日頃に2学期が始まりますので、学校をお休みしての参加です。
「一生に一度きりの経験かもしれない」と、3日後の祝賀パーティーにも参加しようと日曜を挟んで6日間も上京していました。
もちろん、小学2年だったポポロも連れ、東京見物もディズニーランドにもいきました(笑)

 B級(小学4年生以下)64名の出場者中30位くらいで、ほとんどミスもなく、実力を出した演奏ができました。25位までが入賞なのですが、ちょっとだけ手が届かないところがレモンらしい結果です(笑)。

 一連のレッスンと練習を見守るなかで、「表現する」ことがすこし分かりかけてきた私は、華やかな会場で交わされる会話を聞きながら、さらに熱くなったのですが、当の本人は案外冷静でした。

 幼いときからコンクールに出続けている子。
毎月、飛行機で東京までレッスンに通い、血がにじむような努力を続けている子。
そして会場での出場者たちの熱意あふれる姿は、レモンをピアノから一歩遠ざけたように思います。

この後、「ピアノばっかりするのはイヤ!」、「他の習い事もしてみたい」と強く主張するようになりました。
1995年8月27日

ピティナ全国大会
北とぴあ つつじホール
予選、本選の4曲を演奏
   

   YUMI先生とのお別れ


 熱心にご指導していたD先生のご結婚が決まり、車で一時間ほどかかる町に転居されることになりました。
コンクールの後、生徒は1人2人と他の教室へ移っていきましたが、レモンともう一人はヤマハの生徒だったため翌春までご指導いただきました。

 先生に必死についていった3年間でした。
D先生のお考えが、何となく分かりかけてきた時期で、もう少し習いたかったと思いましたが、反面、離れることになりホッとしました。
コンクールやJOCの日程に追われ、練習に明け暮れているときは、それなりの結果も出ていたので、優秀な先生にご指導いただいていることに感謝の気持ちは充分あるのですが、その一方で、いつまでこんなピアノ漬けの暮らしが続くのかウンザリもしていました(先生、ゴメンナサイ!)
 他の先生に替わるまでの半年間は、これからのことをじっくり考えられた、貴重な時間になりました。



演奏以外のことを教えてくれそうな先生

 D先生から離れても、ヤマハのアドバンス上級科がまだ一年残っているので、先生はヤマハの中でお願いしなければなりません。
もちろんD先生からのお勧めの先生はいたのですが、あまりに熱心すぎる先生で躊躇しまし、結局「ピアノの演奏以外のことを教えてくれる先生がいい!」ということで、アドバンス・グループレッスンのC先生にお願いすることにしました。

実はC先生はエレクトーンの先生なのです(!)
当時専門コースの2年目(エレクトーン専攻)だったポポロの個人レッスンの先生であり、レモンのグループの先生でもあったのです。

C先生に師事した2年間(上級科一年、アンサンブル特別コース一年)はアンサンブルに明け暮れました。
ドラムを叩いたり、エレクトーンを弾いたり、ベースを受け持ったりするレッスンは、ピアノとは又違う楽しみが有ったようです。
もちろんC先生のピアノの個人レッスンも普通に受けていました。

他の子の共演者になったり、JOCの曲もアンサンブル、そしてジュニア・フェスティバル(2回)、エレクトーン・フェスティバルと、お友達と5回ものステージを踏みました。

1996年1月
JOCフロアー
自作曲「木枯らしの踊り」

N君の曲でくみちゃんと共演
「ボクの青空 〜気球〜」



1996年4月28日
楽器店主催発表会
小山清茂「かごめ変奏曲」



1996年7月28日
毎日子どもピアノコンクール
十勝プラザ
バッハ「小プレリュード
ホ長調 BWV937」
ダカン「かっこう」

銀賞



1996年9月23日
ピティナ入賞コンサート
音更文化ホール
ダカン「かっこう」
ショパン「ワルツ 69-2」


    ピアノ以外のことを習ってみたい


 C先生につくと同時に(小学5年生から)、ヴァイオリンのレッスンを受け始めました。
先生は渡△先生です。

「5年生からヴァイオリンを始めても・・」とは思ったのですが、ピアノ以外の楽器を習うのは、音楽的にはとてもプラスになると聞いたので、「まぁ、少しでも弾ければ楽しいかな・・」くらいの、軽い気持ちでした。
そのせいかどうか、練習もさっぱりしないで・・
ヴァイオリン初心者の楽譜は超簡単だと、レッスンの時に初見で弾いて○をもらうというやる気のない生徒です。

 でも、継続は力ですね(笑)
こんな調子でしたが4年間通い続けると、何とか弾けるようになり、ソロで発表会を2回、アンサンブルの合宿を2回、ステージ2回、更に帯広ひろびろ音楽会にもオープニングセレモニーにも出演と、たくさんの楽しさを経験し、中3の夏(2000年)の発表会を区切りにやめました。  



ヴァイオリンの発表会
1997年12月7日
音更文化センター
リュリ「ガボット」




   自分で考えて曲作りをしたい


 アンサンブルに明け暮れたといっても、C先生にピアノの個人レッスンも受けていましたし、大好きなコンクールにも出ていました。
ピティナではなく毎日子どもピアノコンクールに、小5・小6と2年続けて出場し、どちらも銀賞でした。
このコンクールは課題曲(バッハ)と選択曲があります。
それまでは発表会などに追われ、エチュードはほとんど形だけしかしていなかったので、バッハはやはり実力が隠せません(笑)。
出場者の中で、レモンのバッハだけが違う歌い方になっていました。

選択曲ではまわりの方から高く評価されるのに、どうもバッハは・・
でも、レモンは全く気にせず、「自分なりに考えたのだから銀賞でもいいんだぁ〜」と、のんびり構えています。
確かに、先生の言うとおりのことを必死に練習してきた時よりも、はるかに成長したと考えてもいいのかと思い、じっとガマンの私です。


小学校の音楽室で
合唱少年団の練習中





 のびやかな気持ちで…

 「レモンだけが違う歌い方」で、コンクールに出られたのは、C先生のレッスンで自分なりの表現を先生に聞いていただいたからです。

まだ小学生で、練習曲をほとんどしていないレモンなのに、曲を弾いていると、「こう弾きたい」と、勝手に曲のイメージを膨らませてしまうようになりました。
もちろん、見当はずれだったり、明らかにおかしい表現も多かったのですが、C先生の前では、恥ずかしがらず弾け、また先生もそういうレモンに暖かい気持ちで対応してくれました。

このころから私はレッスン場に入るのをやめました。
必要ないというより、邪魔になるような気がして…

演奏者の音楽技術や表現の、「何を良しとして」、「何を直すのか」ということを考えるのが、毎週毎週のレッスンですべきこと…
たとえ小学生といえども人まかせ(先生まかせ)ではいけないのだと分かりました。

1996年9月29日
C先生教室発表会
十勝プラザ
ショパン「ワルツ 69-2」


1996年12月22日
JOCフロアー
十勝プラザ  自作曲
「EL-CASTILLO」
共演者 リュウ君
     くみちゃん
      のりちゃん


1997年2月16日
JOC道東地区コンサート
釧路市民文化ホール
「EL-CASTILLO」


1997年7月31日
毎日子どもピアノコンクール
音更町文化センター
J・Sバッハ
「インベンション 13番」
イエンゼン「あこがれ」

銀賞



1997年8月31日
C先生教室発表会
六花亭ホール
ハイドン「ソナタ ト長調」


1998年6月28日
EL-フェスティバル
SHAZNA
「すみれMelty Love」
アンサンブル特別コースのグループ


1998年10月25日
ジュニアフェスティバル
アムロちゃん
「Can you celebrate?」
アンサンブル特別コースのグループ





   えっ!ピアノをやめちゃうの〜?


 ピアノに向かう姿勢も大人びてきたし、アンサンブルで楽しみ、大好きなコンクールにも出場し、バイオリンも習いはじめてと、順調に進んでいると思っていたら、突然「ピアノをやめてもいいかな…?」と言い出しました!
晴天の霹靂とはこのことです。
理由を聞いてもハッキリしたものはなく、私には戸惑うばかりです。
もうすぐ小学校卒業という時期でした。

でも、本人の意志が固いので、先生にご相談して「説得して下さい!」とお願いしました。
最後のレッスンは先生とのお話です。
でも、どう話しても、レモンの本意は分からず…
たぶん本人にも分からなかったのだと思います。
結局、先生と私は、「休みたくなったのでしょう。少し様子を見て…」と思うことにしました。

そのうち復活するとタカをくくっていましたが、その後十ヶ月以上ピアノに目もくれませんでした。
中学生になり吹奏楽部に入り、ヴァイオリンのレッスンも続いていましたが、ピアノだけは弾かないのです。
合唱の伴奏を引き受けても、家ではほとんど練習をしないという徹底ぶり!

本当にピアノをキライになっちゃったの〜??
もう止めちゃうの〜??と、心配ばかりの日々でした。


 復活のきっかけになったのは、ポポロが通っていた池◇先生の発表会にいってからです。
池◇先生は、この地域では実績のあるベテラン先生で、それまでエレクトーンを専攻していたポポロがJ専終了後、ピアノのレッスンに通っていました。
多くの生徒を育て、落ち着いた先生で、ポポロにはこの先生と決めていましたが、まさかレモンもその先生に教えていただくとは考えていませんでした。



 中1の12月からお世話になり現在に至っています…
池◇先生にご指導していただくようになってからのレモンを見ていると、何故一度は止めてしまったのか、分かるような気がしてきました。
段々気持ちが大人びてきて、レモンなりに落ち着いてピアノに向かいたかったのだと思います。
発表会やコンクールは年に一度で充分だと感じたのでしょう…

中学生のレモンの成長はポポロの歩みが一区切りついてから再び…


   長いお休みのあと

 ピアノは毎日毎日の練習が必要な楽器です。
長くお休みすれば、それまでの苦労が水の泡とばかりに、地を這うように、あるいは石を刻むごとく、営々と練習を積み上げている子が確かな技術を身につけます。
それなのに…
小学校6年の2月から、中学1年の12月にレッスンを再開するまでの10ヶ月間、家のピアノには全く触らなかったレモン…

 池○先生のレッスンに向け、エチュードはツェルニー40番から、
(といっても、30番は修了していませんでしたが…)
バッハはインベンションが数曲残っていましたが、シンフォニアから始めたいレモン…
さすがにベテラン先生は実力を見抜きますね(笑)
初回レッスンのために用意したツェルニー1番とバッハのシンフォニア1番を聴き、「ツェルニーはこのまま続けますが、バッハは残っているインベンションをしましょう」と、おっしゃいました(笑)
バッハが苦手というより、練習らしい練習をしたことがないレモン。
「バッハはあせらずしっかりと進みましょうという」先生のご意見は説得力がありました。

ピアノは先生の音楽性を信頼し尊敬することが上達の早道です。
しっかりと自分の演奏の長所と短所を理解していただけたことで、レモンも素直な気持ちで従がえたので、中々幸先がいいスタートでした(笑)



   中学生のコンクール

 なぜかコンクールが大好きなレモン。
レッスンを再開して、半年後にはコンクールのステージに立っていました。

実はとても自信をもって出たのですが…
中々よく弾けたのですが、なぜか入賞せず、本人も先生も、もちろん私も大ショック。

レベルに達していないと思われる子でも、奨励賞や努力賞を受賞しているのに…
帰宅して、こらえきれず泣き出し、
「私の演奏があの子達よりも劣っているということなの!」
「何も見るべきところがない演奏だったの?」と、どうしても気持ちが納まらないレモン。
審査への不満はコンクールにつきもので仕方がない事だとなだめても、空しい言葉です。
「まだ中学2年なので、来年も出場しよう」と勧めると、「来年まで待てない!」とばかり、先生と相談して、もうひとつコンクールに出場しました。

 札幌で開催される「ピアノ・○ーディション」で、腕を競うコンクールというより、水準に達していると入賞し、その中から数人が全国大会に選ばれるシステムです。

札幌はピアノのレベルが高い地域です。
全国レベルの大会でも沢山入賞しますし、プロのピアニストも多く輩出しています。

レモンは乗り物に弱いこともあり、地元以外のコンクールは出たことがないので、私は不安でした。(チャンスを狙う子は、道内のいろんな地区の予選に出場するのです)
ピアノ・○ーディション北海道予選は、はヤマハセンターのホールで地味に行われたのですが、一握りの全国切符を目指す子もいて、さすが厳しいものでした。
もちろんレモンの目標は単なる入賞です(笑)
このときも、自信を持って出場しました。

審査結果が通路に張り出されるのを待ち、入賞を確認してから、地下鉄駅へダッシュし、やっとJRに飛び乗り、夜汽車に揺られて帰宅しました(笑)
                     

 こう振り返ってみると中学2年は大変な一年間でした。
吹奏楽部でトロンボーンやユーフォニュームを吹き、ヴァイオリンのレッスンに通い、フルートの個人レッスンも受け始め、ピアノも…
ステージはピアノコンクール3回、発表会1回、ヴァイオリンのアンサンブルで2回と個人で1回、フルートで1回。
その間にアレコレあって、吹奏楽部を退部しましたし…
                           

 中学のコンクールの締めくくりは、やはり、悔しさを残した毎日ピアノコンクールです。
このときは心に秘めたものがあったのか、予選では徹底的に「賞狙い」の演奏をしました。
それまでは、どちらかというと自分の好きなように弾いてきたので、まるで別人のようでした。
あまりいい傾向ではないと私には感じられて、先生に相談すると、「子どもでも色んな感情を抱えてピアノを弾きます。本人なりに考えて弾いているのですから良いことだと思います。」とのお返事でした。
これって、親の出る幕ではないと言われたのですよね…(笑)

予選で金賞を受賞して、札幌の本選会で他の子の演奏を聞きながらレモンは、ピアノをさらに頑張るのか、あるいは細々続けるのか迷っている気持ちをぽつぽつ話し始めました。
やはりコンクールは別れ道ですね…

グラース・ミニヨン・アンサンブル
コンサート(ヴァイオリン)
ディズニー・ファンタジー


1999年7月11日
毎日子どもピアノコンクール
音更町分化センター
J.S.バッハ
シンフォニア6番BWV.786
ショパン作曲
ポロネーズop71


十勝ひろびろ音楽祭
オープニングコンサート
「帯広グラースアンサンブル」
(ヴァイオリン)
G.ホルスト
「ブルック・グリーン組曲
W.A.モーツァルト
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」


1999年10月17日
池○教室発表会
音更町分化センター
ショパン作曲
幻想即興曲op66


川○フルート教室
クリスマス発表会
G.フォーレ
「シチリアーノ」
S.フェイン
「不思議の国のアリス」


渡○ヴァイオリン教室発表会
2000年7月9日
音更町分化ホール
ザイツ
コンチェルトop12 No2 第3楽章


毎○子どもピアノコンクール
2000年7月20日
J.S.バッハ
シンフォニア8番BWV794
モシュコフスキー
愛のワルツop 57No5
金賞


毎○子どもピアノコンクール
2000年8月7日
本選会
札幌サンプラザホール



2000年10月29日
池○ピアノ教室発表会
ハイドン
ソナタHob XY/52 第1楽章







  ドレスは恥ずかしい??


 楽器を習わせていて面倒な事のひとつに「衣装」があります。
黒く大きなピアノには、サテンやオーガンジーなどの派手なドレスが似合いますが、ヴァイオリンでは相当の腕前でないと大げさすぎるような気がして、むしろ清楚なブラウスとスカートがふさわしいと思います。
管楽器だと学校の制服もよく似合います(^^;

 まったくお裁縫が出来ない私(恥)
レモンには小学校5年生から中学3年まで、発表会やコンクールなどのドレスはレンタルを利用していました。
気合いが入っているコンクールでは派手なドレスでも目立ちすぎないのですが、発表会ではちょっと…
他の出場者の方の衣装によっては、一人だけ浮いてしまうこともありました(^^;

他の子と同じような平凡な格好をしたいレモンと、ピアノに相応しい衣装でと思う私の葛藤は大きかったです(笑)
結局、ず〜っと派手派手レンタルドレスと、最後に1枚だけ作ったドレスで中学校は終わりました。

さすがに高校生になった2001年10月の発表会からは、本人の希望どおりに市販のお洋服になりました。

でも、どうして大げさなドレスは嫌なのでしょうね〜?
人前で弾くのには、気合いが入っていいと思うのですが…
それと、あまりに地味な衣装だと発表会が盛り上がらなくて、先生も淋しいだろうなと思います。

 このごろの発表会はあれっ?と思うような格好の子も多いです。
スニーカー、厚底靴、ジーンズ、トレーナー、フリース…
どれも、ステージで演奏する時の衣装ではないと思うのですが…





 ドレスは恥ずかしい?その2(ショパンコンクールにて)

 

 確かに派手なドレスだわ…

赤い生地は中学3年生の毎日コンクール本選会で札幌に行ったときに買いました。
子どもっぽくなるので襟はつけないつもりが、本人の強い希望でこんなデザインになりました(^^;
私の友人に頼み込み仕立てていただいたのですが、発表会で一度着たきりではもったいないと、今回はぜひこの衣装でと、私の強い希望で着せました。

 ところが今回のショパンコンクールは、どの子も地味な衣装で…
市販の襟無しノースリーブのワンピの子が多かったので、レモンは思いっきり浮いていました。
地元だと人目があり、これだけで気が滅入ってしまったかもしれませんが、何しろ札幌だったので(笑)、まぁしょうがないか…と、「旅の恥はかきすて」の心境だったようです(爆)
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