日々雑感

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<大地の学校>で学べること

<大地の学校>は、生活の営みそのものに学ぶべきことがある、との考えで開いている。
日々の生活をきちんとこなせるようになれば、必ず子ども自らの中に色々な積極性や物事への意欲が出て来るもの。
しかし、どこの家庭でもそうであるように、生活というものは毎日同じ仕事が休みなく繰り返し続く。
でも、飽きたから、たいくつだから、面白くないから、と言って止めるわけには行かない。
なにせ生きる営みなのだから。
<大地の学校>での教育の根本は、この、生活の持つ強制力である。

ところが段々と伸びてきた意欲の芽が、今度は、自分のやりたいことがここでの生活の制限を受ける事に、うっとおしさを感じさせるようになる。
成長し自立性が出てきた子にとって当然の現象だ。
しかし、ここからが次の成長の始まり。
自分の担う生活を放り出し、より楽な環境で思いを果たす事をするのではなく、今の生活の中で出きる事を精一杯工夫させる。
そういう時が青少年の時期には必要だと思う。

元来、辛抱や我慢・工夫・努力ということは、子どもたちが育つ生活の中で育まれてきたものだろう。
日本のような工業先進国は豊かな物と快適な文化生活を手に入れたが、その代償に生活の中身を薄っぺらにしてしまった。
最近の少年犯罪が話題になるたびに出てくることとして、「存在感の希薄さ」という言葉が有る。
薄っぺらな暮らしで成り立つ時代、その中で育ってきた彼らの自覚だろう。

幸か不幸か今の時代、普通の家庭では、子どもが生活仕事を担わなければならない状況は無い。
つまり子どもに取っては、その必然性を感じられない環境という事。
既にお判りのように<大地の学校>というのは、北海道の僻地農村に在る。
ここで暮らす森田家という、夫婦と4人の子どもたちが居る家庭の中に入って生活することなのだ。
普通の夫婦にとって、小学3年から1才まで4人の子どもたちが居るだけでも手が掛かるもの。
その中に入るのだから、皆が家の生活仕事を担わないと成り立たない家庭状況にある。
だから、学ぶものが有るのだし、自立性も育つのである。

(00年6月)

 
 
 
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