’35年9月9日時間不詳体重九百匁。典型的な大きく生まれて小さく育った例。出生前の室戸台風をなぜか記憶している。記録を見たのと親たちの話から補完したのかも
大津村立大津東幼稚園廃園。(典型的な登園拒否で、爺ちゃんの姿が見えなくなると逃げ帰った。卒園記念写真には姿がない。)
大津村立大津東小(国民)学校統合により廃校。(近くに海軍飛行場があったのでよく練習機が不時着していた。二代目黄門様の西村晃はこの基地から嫁さんつれて終戦時飛行機{零戦と本人は言うてたようだが、そんな機体の姿は見てない}で逃げ出した。その後、ジープで来たGIに”ギブミーチョコレート”をやった。)
大津村立大津中学校統合により廃校。(入学時校舎はなく、小学校に同居?青年学校跡の教室を使用。登校時に草履を履き制帽は、叔父の陸軍帽に靴墨を塗り詰め襟が無く、折り襟服で登校。若かった担任のラブレターの運び屋もやった。)
県立撫養高等学校校名変更(後に鳴門商業高等学校。現在鳴門第一高等学校とか。学校のすぐ横を鳴門線が走り、その線路の上に硬貨を置きひっしゃげた表面に欲しかったカメラ名SNAPPYと刻んだ。)
徳島大学学芸学部学部名変更と内容移転(現在殆どは、鳴門教育大学に移管したらしい。)なぜかみんななくなってしもうた。
三つ違いの二学年下の弟が、いつも私よりも大きかったので兄のお下がりは弟が受け持って私が新品を貰うことが多かった。
おふくろは、私のために鉛筆からクレヨンまで全部準備してくれたが、学校に持っていくと物資不足の折りで、きれいさっぱりみんな盗まれてしまった。それでも、おふくろはまた翌朝準備してくれていたが、戦争が激しくなり物資不足も極限になり、空襲警報もよく発令された。登校準備もいつしかおろそかになり、ノート代わりに名産の足袋や、わかめのレッテルの裏を利用した。鉛筆代わりには、マンガン電池のプラス電極の炭素棒も使った。
そんなある日、当時物資不足でタブロイド版ぐらいしかなかったと思う新聞に、広島市に新型爆弾が投下され被害があったという記事があった。詳しいことは記載されてなかったと思ったが、風評では木造建築などでは光線から逃げ切れないと言う。そこで父は、周りから格好のコンクリート構造物を見つけた。それは田圃の枕にあった肥料(人糞尿)壺だった。中身を出し切って周りの壁もきれいにして一回だけ使った。空襲警報が出た夜、灯火管制で真っ暗闇の中坪に向かった。お袋は、みんなより遅く家を出た。坪に着いて誰かを呼ぶ声が聞こえたが私によく似た発音の子がいる方からの声だったのでそのままにしていたら、暫くして、おふくろが半ベソかきながら着いた。栄養失調で、夜盲症だったおふくろにとって闇夜はとんでもない世界だったようだ。その晩は、家族全員で壺の中で寝た。不安だったのか、久しぶりにかすか(?)にオネショした。
高校生の頃、家業の梨園で収穫の手伝いをしてた。その時一個の梨の紙袋が大きな転機を与えてくれた。何気なく見た袋の新聞広告にミッキークラブの会員募集があった。その袋を大切に家まで持って帰り早速入会手続きをした。ディズニーのフアンクラブの会報が送られてきた。その中に、尼崎の菱田美恵子という高校生がミスシンデレラに選ばれたことが出ていた。(彼女こそ、芸名丘さとみとして東映時代劇映画のお姫様役として数多くの作品に出演した女優である。)
会報に、投稿したイラストが載って同じマンガ好きの人たちとペンフレンドになり気をよくしてた私は、ウォルト・ディズニーにもフアンレターをエアメールで出した。(ディズニー事務所から町に出ていますと言うタイプ文と不思議の国のアリスの絵が送られてきた。外交辞令に疎い私はほんとに町って遠いんだと思っていた。)ミーコ(菱田美恵子さんの愛称)にも手紙を書き、ペンフレンドになってくれるようにお願いした。数日後返事が来て簡単な自己紹介とペンパル(英語の得意だったミーコはペンフレンドとは書かなかった。)承諾が書いてあった。その角封筒の裏のとじめには(私の思いこみだと思うが私をイメージした?)ティモシー(ダンボのネズミ)の絵が描いてあった。
ここから交流が始まるはずだったが、お互いに高校三年生。私は大学受験・彼女は芸能界入りと大忙しで全く交流のないままペンパルはとぎれて終わった。
その後彼女は、お姫様役を卒業?してUSAの人と結婚して、USAに行って2児をもうけたが、離婚して日本に帰ってきた。時折ホームドラマで顔を見せていたが最近は見かけない。
紫電改見たよ
飛行場と空港の違い知ってる?軍用航空機の発着場が飛行場で、民間機のが空港なんだって!併用の場合はどちらも使うんだって。生まれた場所が海軍航空隊松茂飛行場(現徳島空港・海上自衛隊松茂航空基地)の隣村だったので小さい頃からよく飛行機は見た。いわゆる赤トンボとか言う”白菊”練習機がよく不時着してた。元黄門様の西村晃が乗ったと主張する零戦は殆ど見かけなかった。ボーイングB−29が高々度で侵入したとき、迎撃に雷電が一機向かったが過給器のない悲しさ。飛行雲を引き始めたら出力不足で相手の機関砲に追いやられるように降りてきてしまった。その少し前には、空襲警報のさなか見上げた空にそれこそ、雲霞(?)のようにコンソリデーデッドB−24が一路大阪に向かっていたこともあった。そんな頃の日本の最後の(?)望みだった源田サーカスの紫電改の編隊の低高度飛行を一回だけ見た。後に見たヴォートシコルスキーF−4の逆ガルタイプの迫力には負けたが、たまに見た零戦よりも洗練された魅力と歯切れのよいとびっぷりだった。