「グラビトニックス」時代の幕開け
21世紀は酵素文明



  「生命」そのものが解けないこれまでの科学文明





私たちは食べ物を通じて栄養と呼ばれる「物質」と、今はまだ形としては捉えられない「命」の元になっている「未知の力」を、大自然から貰っていることは間違いないことでしょう。
私たちは「物質」と「未知の力」によって日々生活し、それに止まらず次なる高度な「未知の力」を発する存在です。それは「精神活動」といわれる部分です。精神活動は生命すべてに感じさせることのできる特殊なエネルギーです。

しかし、「精神活動」の本質や宇宙に存在するはずの「未知の力」を「科学する」ことは、「およそ科学的でない」と考えられてきました。
それらは、せいぜい「文学や哲学の問題」としか捉えませんでした。
だから医学生理学栄養学を始めとする「科学」は、我々自身や食べ物にされている生命体について「半分しか」見てこなかったことになるのではないでしょうか。

「ヒト」も食べられる側の「食べ物」も、「生命を持った特殊な物質」であるわけですが、科学では「命」そのものを取り出して見ること、計測することができないのです。
できない以上「生命」そのものの本質にも言及できません。それが今までの「科学」の限界でもあるわけです。





ところで、「宇宙」つまり我々をも含む「森羅万象たる宇宙」は、アインシュタインの有名な「E=mcの二乗」の方程式によって「電磁波」と「重力波」によって成り立つことが理論上証明されているそうです。
電磁波に関してはよくも悪しくも知り尽くすほどに知識は溢れ、我々の生活の中に縦横に応用されています。

「電磁波」は、よく知っている携帯電話やテレビを思い浮かべますが、「波動性」と「粒子性」の二つの形態を有するエネルギーです。携帯電話の電波やテレビの電波は前者に属します。
では「粒子性」とは何かというと、一般に我々がモノといっているもの「全て」がそれです。
電磁波の粒粒が密度を高め、その結合が強固な状態のものが「物質化」していると考えればいいでしょう。
だからモノまで含む「電磁波全般」、今はその乱用が問題を深刻化させているのです。

理論物理学の専門家においては、宇宙が「電磁波」と「重力波」によってなりたつことは定説化しています。ところが身近なことを扱う科学では、「重力波」は未だ全く理論上だけのことのように考えられてきました。




先端の理論物理学はなぜか、科学ともっとも縁がないと思われた『東洋哲学』に通じる理論を導き出し、ますます接近中です。
方法論がまったく異る二つの世界なのに、理論物理学が捉えた「外宇宙」と、東洋哲学がヨガの瞑想等に依って観じた「内宇宙」のイメージは限りなく似通っています。

原初の宇宙を、「カオス」とする物理学に対し、「太極」という概念を東洋哲学は有します。その「太極」が2つに分化し「陰陽」を生みます。
宇宙の「陰陽」とは「電磁波」と「重力波」のことでしょうか。
それら「陰」と「陽」は更に分化を続け、「陰」の中にまた新たな「陰陽」ができ、「陽」の中にも「陰陽」が生まれ、際限ないかのように分化が続きます。
もうこれ以上の分化は不可能という段階は、すべての個が無限に孤立し、この状態を再び「太極」といいい、「混沌」であります。
つまり再び原点に戻るということです。しかし、東洋哲学では、この「太極」は、元の「太極」ではない、と見ます。なぜなら「この世に二つとして同じ物はない」からです。



宇宙の一部であり、あるいは宇宙そのものであるはずの「我々」や、我々の身近な「事柄」だって、当然「宇宙の法則」の作用する範疇のことです。
身近な生命現象を通じ小さな宇宙を検証する「生命物理学」という一分野を創設するか、いや、分断専門化し過ぎた科学を統合し「新博物学」にするか、あるいはもっと大きく学問の枠組みの見直しを考え直さなくてはならないのかもしれません。
デカルトの思索した「自分を知ること」は、今大きく方法論の転換を求められているのではないでしょうか。

科学で生命を電磁波的に捕らえられないとすれば、今のところむしろアインシュタインの方程式の導くところの「もうひとつのエネルギー」の可能性を考えるほうが妥当ではないでしょうか。
宇宙に存在するはずの、もうひとつのエネルギー「重力波」こそ科学でとらえらない「生命」の本質ではないかという仮説は、十分研究する価値があると思えます。

しかし科学者が何故、無視するのかを考えると、おぼろながら科学という方法論の限界が見えてきます。
計測する方法や、検出する技術がいまだにないため、存在の証明のしようがないというところです。具体的に計測できないことには体系立てた研究ができないと考えているのです。これが科学の現実です。

我々は何の検出器を有しなくても「生命を感じる」ことができます。
死体も生体も物質的には何ら変わることはなくても、意味する違いはだれでも感じることです。
こんなに明らかなことであるのに、科学上ではその「生死」がなかなか解決のつかない難題です。だから臓器移植での「死の判定」が難しいのでしょう。

こんな具合で科学は「生命」そのものを、何よりも苦手にしています。
物質を極めた科学ではありますが、「生命」はいまだ「分からないもの」です。





生命中心の「グラビトニックス」時代が地球を救う!




「生命」はもともと「感じる次元」の事柄ではないでしょうか。
この部分を無視している限り、我々の生命力は低下する一方で、高まることはなさそうに感じます。

私は人の健康状態や食べ物の生命力を「O・リングテスト」で判断します。
それは自分の身体をテスターにする「生命波動」の検知法だといったらいいのかもしれません。

また、「気」を用いて妻を初め何人もの重篤な人を回復させてきました。
「気」は、それ自体が「重力波」であり、また宇宙の「重力波」へのチューニング法だと考えています。

「経絡」を利用し温灸や指圧もやってきました。
「経絡」は「重力波」の通り道であるだろうし、伝統的なモグサから発する遠赤外線は「重力波」を流れやすくしたり、取り込みやすくする効果があるように思います。

そして何よりも「森の精という微生物を開発し、長年に亘り利用してきました。
利用して『「森の精」に存在する微生物こそ、もっとも身近な「重力波」の補給源だ』と感じています。

上に記したことは表現上そうしたもので、私自身の体験の順番ではありません。
私自身の体験は、まず偶然にできたといっていい「森の精」の誕生から始まりました。
あまりにも常識を逸脱し理解の困難な展開に、半分は畏怖し、半分は好奇心でこの世界に深く関わることになったのです。
「森の精」を長年飲み続けたことから、不思議なことに色々な能力が目覚めてきました。
それが「O・リングテスト」であり「気」であり「経絡」を感じる能力でもありました。
いずれも今の科学では説明不可能なものばかりです。
だがその効果や結果は何より自分自身が最も感動してきました。
「開けようとしなかった世界のドア」が開けられるのを待っていてくれた、そんな気がしました。

しかし、長らく他人に理解してもらうことは困難を極めました。
多くの相談で「O・リングテスト」を用い、一つ一つ手探りでやってきて皆、「不思議!」と驚きをもってよくなってくれましたが、「結果は絶対偶然ではない」と確信していても、それを説明する「ことば」が見つからなかったものです。

それを一遍に解消し、自分自身で納得がいったのが、友人から送られた一冊の本によってでした。
「中身は難しいから分からなくてもいいよ。とにかくOOページにある健康法は、きっとお宅の女房にいいはずだよ」
といって、送ってくれたものです。

関 英男氏はわが国の「サイ科学」の第一人者だ。著書の「宇宙学序章 グラビトニックス」(加速学園出版部)という本でした。

妻にいいといわれた方法は「不思議な腕振り運動 スワイソー」という中国の健康法で、私は既知のことでしたが。
「自律神経」の不安定な人にいいだろうと思い、すでに何人かにやって貰ったことのある方法でした。事実驚くような効果があったものです。

しかし、私の目が釘付けになったのは、それ以外のページでした。
全編これ、私が捜し求めていた「キーワード」にまつわるものです。「未知のエネルギー」を論じていました。
書名もそのものズバリの「グラビトニックス」

ここにきて「生命」がおぼろげながら、解ける方向が見えつつあります。
科学としてはまだ認知されるまでに至ってはいないのですが、前述の俗にいう「サイ科学」というのがそれです。
「サイ科学」はそういった領域の科学と考えていい。
その中に「グラビトニックス」という分野ができつつあるのです。

おそらく21世紀はこの分野から、大転換が起こるはずです。
それこそコペルニクス的転換であり、パラダイムの転換です。
そして、やっとその先に「デカルト的分断」を収束させうる、本物の「知識」が現出するはずです。
「自分が何であるか」の謎に、ついに終止符が打てる時がくるのかもしれません。

化石燃料が発するエネルギーとは異質の、生きてるものが持つエネルギーこそ「未知のエネルギー=重力波」ではないでしょうか
重力波をグラビトンといいますが、それに関する科学・技術を意味する「グラビトニックス」という分野が明らかになりつつあるのです。

「生命体は重力波によって電磁波である物質が活性化した状態」ではないでしょうか。






生命力の補給路「微生物」が瀕死の現在!



我々は生命力の本質である「重力波」の大部分を「食べ物」で得ています。
しかもその多くを微生物の産生する「酵素」によっています。
酵素は、あるいは「生命の川」の演出家かもしれません。

「命」のあるものは、ある共通の仕組みを持って存在しています。
大腸菌から巨大なクジラまで、すべてが「細胞」で成り立ち、「DNA」をもって、「栄養を吸収」し、「自己増殖」する仕組みでなりたっています。
それらの作業に不可欠な酵素について科学は十分ではないが、かなり解き明かしてきました。
エサを分解したり、体内の老廃物を分解したり、またDNAに従ってアミノ酸を配列しなおし、細胞の再生や組織の修復に用いるたんぱく質の合成をしたり、エネルギーを生み出す仕組みに重要な役目を果たし、化学工場でも困難な高度の作業を、顕微鏡でしか見れない細胞の中でやってのけます。
よく酵素は化学工業に使われる「触媒」の役にたとえられますが、そんな生易しいものではないと思います。

作業そのものも、ミクロの世界で精緻を極める驚異的なものですが、生命現象は「物質」と「未知の力」によるわけですから、微生物も当然「未知の力」に溢れているはずです。
しかしそのことは科学は何の言及もありません。

「森の精」が「Oリング・テスト」で、いかなる食べ物よりも数段強く「生命体にとって必要なもの」だと出てくることは、単なる栄養素としての必要性だけではなく、生命そのものの実体だからと思うのです。
なぜならば、「Oリング・テスト」は生命力、および重力波を「感じる」方法に他ならないのですから。

細胞の中で行われる生命現象のすべては、酵素なくしては、なんの反応もありえません。
酵素は、生命体が融通無碍に利用してきた「宇宙力」といっていいのかもしれない
生きていく元である「酵素」は、食べ物から得たものをうまく利用したし、我々も生命体そのものだから、自分の細胞の中で作り出す力を持ってもいます。
生命体は長い時間の中で、酵素を獲得し過酷な環境に立ち向かって、進化を遂げてきたはずです。

ところが、20世紀急激に発達した物質中心の科学文明は、あらゆる生命現象、特に単純な生命体に対して実に過酷だったし、あまりにも鈍感でした。
土の中や水の中に存在する多くの種類の名のない微生物の存在など、まるで眼中になく、人間のエゴの追求のためだけに科学は邁進してきました。

「化学物質」はあらゆる酵素にとって大敵です。

酵素は「生命体の中で化学工業の触媒とよく似た働きをするもの」だから、他の化学物質に出会うことにより本来の触媒としての働きがまったくできなくなってしまいます。このことを酵素の「不活性化」とか「不活化」といっています。

ヒトや高度な組織を持つ生き物は、複雑な「酵素系」を持っています。
ヒトは複雑な酵素系のおかげで、毒を無毒化する酵素も中には持っています。
一応の安全試験を経た化学物質は、いきなり大きな影響は出難いが、一時的には無毒に見える化学物質であっても、単細胞、あるいは単純な酵素系しかもたないシンプルな生物では、酵素を不活性化させる物質によって、ひとたまりもありません。
そんなことから存在さえ知らないうちに、絶滅していった小さな生物も沢山あるに違いないのです。
特に地上の生物の大部分を占める土壌菌は、我々の食べ物を支える大切な仲間だが、化学肥料と農薬で、今や末期的な惨状を呈しています。

その結果、見てくれは立派であっても、作物や野菜自体の生命力が、ひどく弱体化してしまいました。
今や残留農薬ばかりでなく、豊富にあって我々の「生命力」を補っていた酵素、つまりその作物の「生命力」がまったく壊滅状態です。そのために、それを食べて生きる我々は「慢性的な酵素の取り込み不足」に陥り、生命力を急速に低下させています

それ以外にも、我々は放出されたダイオキシン等の無数の公害物質、ありとあらゆる加工食品に添加された化学物質をいやでも取り込まざるをえないのです。
結局のところ、我々の酵素が更に不活性化して、全身の細胞単位の「生命工場」が瀕死の状態だといってもいいでしょう。

化学物質の増加とともに、原因を特定できない「不健康」が激増しました。
かっては細菌やビールスによる流行病や遺伝的な理由によるものが、病気の大半を占めていたものですが、難病奇病、あるいは説明のつかない半健康、未病で悩み苦しむ人々が、猛烈な勢いで増えています。

これらの半健康、未病は、細胞や組織の中の力(自然治癒能)が、著しく低下したせいなのです。
かっては「よく休む」「よく眠る」ことで修復されたものが、今はいくら寝ても回復できないでいます。

原料となる栄養が十分にあったとしても、「酵素不足」から、「生命工場」である細胞の「修復能力」が発動しないことに、大きな原因があるのです。








化学物質なしで人口、食料問題の対応ができない現実



しかし今や世界は「悪い」とは知りつつも「化学物質の利用」をやめるわけにいかない困難な状況におかれています。

20世紀は「人口爆発の世紀」だったが、21世紀の初頭、これからますますその勢いを強めるという予測があります。(レスター・ブラウンの「ワールド・ウオッチ研究所」のレポート

20世紀は砂漠状態の乾燥地を中心に耕作面積の急激な増加から食料生産は奇跡的な飛躍をしました。特に後半の50年はほぼ倍増する勢いでした。
潅漑の普及や化学肥料、農薬等の農業技術の進歩と、機械化があったからといわれます。
しかし、今後は技術面における革命的なものの出現は望めず、その上今では折角耕作可能になった灌漑地のかなりの部分で、「塩害」によって放棄されるという考え付かなかった不測の事態も生まれてきました。

その上、世界的な異常気象が恒常化しつつあり、これからの食料生産は最大限にうまくいって微増、ややもすると大幅な減少を覚悟しなければならないといいます。かってのように倍増というような伸びはまったく不可能なことでしょう。
一定量の食料を無駄なく供給して効率的に人口を賄うためには、我々の社会は益々「化学物質」という化け物に支配されざるを得なくなっているのです。
これまで食料の変質防止を主目的に、加工食品に大量の「食品添加物」が使われてきました。
今後は加工品ばかりでなく、「ポストハーベスト農薬」による農産物の長期保管や遠距離輸送の必要から沢山の薬が使われるでしょう。
大して減らすことができなかった食品添加物が、今後の食料の不足状況によっては、ますます減らしずらい条件になるはずです。
すでに「健康によくない」ことを知りながらも、地球全体が「すべての生命力が低下する方法」を、かなり前から起動させて止め方が分からないといっていいのでしょう。。

最近は消費者の「安全志向」から、経営的に減農薬、無農薬に戻したい農家が多いのですが、それがいかに難しいかが今、実感されています。
何より土が微生物の壊滅により「生命力」を失ってしまったからです。

といって、生命現象の滅び行く姿を座視できるほど達観した人が、どれほどいるでしょうか。
多くの人々が分かりすぎるほど分かっていても「考えないこと」にしているだけでしょう。
希望の持てる道がない以上、不安に慄くだけならば、考えないことにして当面の生活に没頭する以外にない、というところでしょう。
今や自然のままが生命にいいことは、誰もが認めることですが。

もはや「自然のままの食べ物」は極端に限定され、たとえ地球人口が10分の1しかないとしても養うことは相当に困難です。
たとえば豊かな自然があった江戸時代末期ですら3000万人を養う食料しか、この日本では生産できませんでした。現在わが国の人口はそのころの4倍を超えています。気候風土に恵まれ、米という効率のいい食料を生産する日本ですら、今や80%の人口がオーバーです。
世界的にはもっと過酷な土地で、人口の稠密化がおきているのです。

野生動物の世界を見ると「種」というものは多少のゆとりがあると急激に増加するものです。
人間もその点では同じらしく、技術革新で増産された食糧をバックに爆発的に増え続けてきました。
その人口を賄うために更に増産の途を模索する。これが人類の歩んできた途でした。
こうして今や60億あまりの地球人口になってしまったのです。
根本的には食糧問題は人口問題だし、教育問題です。

しかしそれらの根本治癒には時間が必要です。
今ある人口をできるだけ自然増を抑えながら適正な人口へ「ソフトランデイング」させる科学技術がないものでしょうか。
それを克服できる文明があってもいいのではないか、と私は考えるのです。

それが「酵素文明」です。

酵素には2つの重要な点で、我々に貢献してくれる多くの実例があります。

1つは、あらゆる化学物質に、自分自身が身を投げ打って犠牲になる。
もう1つは、細胞に取り込まれ「生命力」を


という形で貢献してくれるのです。

「森の精」は、私たちと相性のいい酵素を探求して生まれた、大自然そのままの酵素です。









  復元の困難な森に代わるもの

地球温暖化対策として、熱帯雨林の復元はもはや不可能といわれています。
とはいっても、森は、未来のすべての生命のために、完全ではないにしても大急ぎで再生されなければなりません。
何をおいても、もうこれ以上切らないことと、いかにして自然の再生力を高めるかにあります。
身近な人工の森や林が計画的に作られつつはありますが、その効果が出るのはいつの日でしょうか。
いずれも、時間のかかることで、相当に難しい状況ではあります。

森や林の消滅は、地球そのものの生命力を変質させました。
個人の健康に関しても、気づかないうちに何時の間にか静かに深く影響し、生命力を大きく損なう結果になりました。
現代人の『生命力の弱体化』を生み、社会問題化している多くの現象を生み出しました。

『崖っぷち』の人類を、なんとかする手だては無いものでしょうか。
地球の命の未来のために、人類はもっともっと健康な方法を探らなくてはなりません。

何より、便利さ、快適さ以外に『大切なこと』がある事を思い出すことが、問い直されています。
せっかくここまできた科学技術を、人間のためだけに使うのではなく、自然の枠組みを損なわない、『地球生命全体の方法論』を追求することが、科学技術に今求められているのではないでしょうか。

「森の精」は原始のヒトが持っていた生命力を復元させるために「森の生命体とのリンク」を実践してきました。

『縄文の生命力』を取り戻せれば、得体の知れない半病、未病は必ず消失できます。
ヒトが心身共に健康になることで、親にも相当する地球に不孝をせずにすむ、あるいは「天に唾する」行為だけはなくなるかと、思うのです。

森を切って奪うことから始まった人間中心の『悪循環』を、今、微生物との『共生の良循環』に変えるべきです
そうすれば地球環境と生命体全体に、希望を再び持てるのではないでしょうか。

密かに『これは革命だ!』と、思っています。
その具体的な証拠、それが「森の精」です。
ヒトのルーツをたどり、「種」本来の能力を目覚めさせ「正常な生命力よ、よみがえれ!」という思いですが、決して荒唐無稽な考えではないと確信しています。

イルカに触発されて素潜りの記録を作った「ジャック・マイヨール」の偉業は、その後多くに影響を与えました。
彼の強い思いは「ヒトは大昔、水に棲んだ記憶がある!」ところから出発しました。
「森の微生物環境を生活に再現する」ことは、マイヨールに比べればまったく順当なことです。

あなたの健康と、従来の科学が行き詰まった状況を打破するために、是非ともこんな切り口も追求していただきたいのです。







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