「生命」そのものが解けないこれまでの科学文明
私たちは食べ物を通じて栄養と呼ばれる「物質」と、今はまだ形としては捉えられない「命」の元になっている「未知の力」を、大自然から貰っていることは間違いないことでしょう。
私たちは「物質」と「未知の力」によって日々生活し、それに止まらず次なる高度な「未知の力」を発する存在です。それは「精神活動」といわれる部分です。精神活動は生命すべてに感じさせることのできる特殊なエネルギーです。
しかし、「精神活動」の本質や宇宙に存在するはずの「未知の力」を「科学する」ことは、「およそ科学的でない」と考えられてきました。
それらは、せいぜい「文学や哲学の問題」としか捉えませんでした。
だから医学生理学栄養学を始めとする「科学」は、我々自身や食べ物にされている生命体について「半分しか」見てこなかったことになるのではないでしょうか。
「ヒト」も食べられる側の「食べ物」も、「生命を持った特殊な物質」であるわけですが、科学では「命」そのものを取り出して見ること、計測することができないのです。
できない以上「生命」そのものの本質にも言及できません。それが今までの「科学」の限界でもあるわけです。
ところで、「宇宙」つまり我々をも含む「森羅万象たる宇宙」は、アインシュタインの有名な「E=mcの二乗」の方程式によって「電磁波」と「重力波」によって成り立つことが理論上証明されているそうです。
電磁波に関してはよくも悪しくも知り尽くすほどに知識は溢れ、我々の生活の中に縦横に応用されています。
「電磁波」は、よく知っている携帯電話やテレビを思い浮かべますが、「波動性」と「粒子性」の二つの形態を有するエネルギーです。携帯電話の電波やテレビの電波は前者に属します。
では「粒子性」とは何かというと、一般に我々がモノといっているもの「全て」がそれです。
電磁波の粒粒が密度を高め、その結合が強固な状態のものが「物質化」していると考えればいいでしょう。
だからモノまで含む「電磁波全般」、今はその乱用が問題を深刻化させているのです。
理論物理学の専門家においては、宇宙が「電磁波」と「重力波」によってなりたつことは定説化しています。ところが身近なことを扱う科学では、「重力波」は未だ全く理論上だけのことのように考えられてきました。
先端の理論物理学はなぜか、科学ともっとも縁がないと思われた『東洋哲学』に通じる理論を導き出し、ますます接近中です。
方法論がまったく異る二つの世界なのに、理論物理学が捉えた「外宇宙」と、東洋哲学がヨガの瞑想等に依って観じた「内宇宙」のイメージは限りなく似通っています。
原初の宇宙を、「カオス」とする物理学に対し、「太極」という概念を東洋哲学は有します。その「太極」が2つに分化し「陰陽」を生みます。
宇宙の「陰陽」とは「電磁波」と「重力波」のことでしょうか。
それら「陰」と「陽」は更に分化を続け、「陰」の中にまた新たな「陰陽」ができ、「陽」の中にも「陰陽」が生まれ、際限ないかのように分化が続きます。
もうこれ以上の分化は不可能という段階は、すべての個が無限に孤立し、この状態を再び「太極」といいい、「混沌」であります。
つまり再び原点に戻るということです。しかし、東洋哲学では、この「太極」は、元の「太極」ではない、と見ます。なぜなら「この世に二つとして同じ物はない」からです。
宇宙の一部であり、あるいは宇宙そのものであるはずの「我々」や、我々の身近な「事柄」だって、当然「宇宙の法則」の作用する範疇のことです。
身近な生命現象を通じ小さな宇宙を検証する「生命物理学」という一分野を創設するか、いや、分断専門化し過ぎた科学を統合し「新博物学」にするか、あるいはもっと大きく学問の枠組みの見直しを考え直さなくてはならないのかもしれません。
デカルトの思索した「自分を知ること」は、今大きく方法論の転換を求められているのではないでしょうか。
科学で生命を電磁波的に捕らえられないとすれば、今のところむしろアインシュタインの方程式の導くところの「もうひとつのエネルギー」の可能性を考えるほうが妥当ではないでしょうか。
宇宙に存在するはずの、もうひとつのエネルギー「重力波」こそ科学でとらえらない「生命」の本質ではないかという仮説は、十分研究する価値があると思えます。
しかし科学者が何故、無視するのかを考えると、おぼろながら科学という方法論の限界が見えてきます。
計測する方法や、検出する技術がいまだにないため、存在の証明のしようがないというところです。具体的に計測できないことには体系立てた研究ができないと考えているのです。これが科学の現実です。
我々は何の検出器を有しなくても「生命を感じる」ことができます。
死体も生体も物質的には何ら変わることはなくても、意味する違いはだれでも感じることです。
こんなに明らかなことであるのに、科学上ではその「生死」がなかなか解決のつかない難題です。だから臓器移植での「死の判定」が難しいのでしょう。
こんな具合で科学は「生命」そのものを、何よりも苦手にしています。
物質を極めた科学ではありますが、「生命」はいまだ「分からないもの」です。
生命中心の「グラビトニックス」時代が地球を救う!
「生命」はもともと「感じる次元」の事柄ではないでしょうか。
この部分を無視している限り、我々の生命力は低下する一方で、高まることはなさそうに感じます。
私は人の健康状態や食べ物の生命力を「O・リングテスト」で判断します。
それは自分の身体をテスターにする「生命波動」の検知法だといったらいいのかもしれません。
また、「気」を用いて妻を初め何人もの重篤な人を回復させてきました。
「気」は、それ自体が「重力波」であり、また宇宙の「重力波」へのチューニング法だと考えています。
「経絡」を利用し温灸や指圧もやってきました。
「経絡」は「重力波」の通り道であるだろうし、伝統的なモグサから発する遠赤外線は「重力波」を流れやすくしたり、取り込みやすくする効果があるように思います。
そして何よりも「森の精」という微生物を開発し、長年に亘り利用してきました。
利用して『「森の精」に存在する微生物こそ、もっとも身近な「重力波」の補給源だ』と感じています。
上に記したことは表現上そうしたもので、私自身の体験の順番ではありません。
私自身の体験は、まず偶然にできたといっていい「森の精」の誕生から始まりました。
あまりにも常識を逸脱し理解の困難な展開に、半分は畏怖し、半分は好奇心でこの世界に深く関わることになったのです。
「森の精」を長年飲み続けたことから、不思議なことに色々な能力が目覚めてきました。
それが「O・リングテスト」であり「気」であり「経絡」を感じる能力でもありました。
いずれも今の科学では説明不可能なものばかりです。
だがその効果や結果は何より自分自身が最も感動してきました。
「開けようとしなかった世界のドア」が開けられるのを待っていてくれた、そんな気がしました。
しかし、長らく他人に理解してもらうことは困難を極めました。
多くの相談で「O・リングテスト」を用い、一つ一つ手探りでやってきて皆、「不思議!」と驚きをもってよくなってくれましたが、「結果は絶対偶然ではない」と確信していても、それを説明する「ことば」が見つからなかったものです。
それを一遍に解消し、自分自身で納得がいったのが、友人から送られた一冊の本によってでした。
「中身は難しいから分からなくてもいいよ。とにかくOOページにある健康法は、きっとお宅の女房にいいはずだよ」
といって、送ってくれたものです。
関 英男氏はわが国の「サイ科学」の第一人者だ。著書の「宇宙学序章 グラビトニックス」(加速学園出版部)という本でした。
妻にいいといわれた方法は「不思議な腕振り運動 スワイソー」という中国の健康法で、私は既知のことでしたが。
「自律神経」の不安定な人にいいだろうと思い、すでに何人かにやって貰ったことのある方法でした。事実驚くような効果があったものです。
しかし、私の目が釘付けになったのは、それ以外のページでした。
全編これ、私が捜し求めていた「キーワード」にまつわるものです。「未知のエネルギー」を論じていました。
書名もそのものズバリの「グラビトニックス」。
ここにきて「生命」がおぼろげながら、解ける方向が見えつつあります。
科学としてはまだ認知されるまでに至ってはいないのですが、前述の俗にいう「サイ科学」というのがそれです。
「サイ科学」はそういった領域の科学と考えていい。
その中に「グラビトニックス」という分野ができつつあるのです。
おそらく21世紀はこの分野から、大転換が起こるはずです。
それこそコペルニクス的転換であり、パラダイムの転換です。
そして、やっとその先に「デカルト的分断」を収束させうる、本物の「知識」が現出するはずです。
「自分が何であるか」の謎に、ついに終止符が打てる時がくるのかもしれません。
化石燃料が発するエネルギーとは異質の、生きてるものが持つエネルギーこそ「未知のエネルギー=重力波」ではないでしょうか
重力波をグラビトンといいますが、それに関する科学・技術を意味する「グラビトニックス」という分野が明らかになりつつあるのです。
「生命体は重力波によって電磁波である物質が活性化した状態」ではないでしょうか。
生命力の補給路「微生物」が瀕死の現在!
我々は生命力の本質である「重力波」の大部分を「食べ物」で得ています。
しかもその多くを微生物の産生する「酵素」によっています。
酵素は、あるいは「生命の川」の演出家かもしれません。
「命」のあるものは、ある共通の仕組みを持って存在しています。
大腸菌から巨大なクジラまで、すべてが「細胞」で成り立ち、「DNA」をもって、「栄養を吸収」し、「自己増殖」する仕組みでなりたっています。
それらの作業に不可欠な酵素について科学は十分ではないが、かなり解き明かしてきました。
エサを分解したり、体内の老廃物を分解したり、またDNAに従ってアミノ酸を配列しなおし、細胞の再生や組織の修復に用いるたんぱく質の合成をしたり、エネルギーを生み出す仕組みに重要な役目を果たし、化学工場でも困難な高度の作業を、顕微鏡でしか見れない細胞の中でやってのけます。
よく酵素は化学工業に使われる「触媒」の役にたとえられますが、そんな生易しいものではないと思います。
作業そのものも、ミクロの世界で精緻を極める驚異的なものですが、生命現象は「物質」と「未知の力」によるわけですから、微生物も当然「未知の力」に溢れているはずです。
しかしそのことは科学は何の言及もありません。
「森の精」が「Oリング・テスト」で、いかなる食べ物よりも数段強く「生命体にとって必要なもの」だと出てくることは、単なる栄養素としての必要性だけではなく、生命そのものの実体だからと思うのです。
なぜならば、「Oリング・テスト」は生命力、および重力波を「感じる」方法に他ならないのですから。
細胞の中で行われる生命現象のすべては、酵素なくしては、なんの反応もありえません。
酵素は、生命体が融通無碍に利用してきた「宇宙力」といっていいのかもしれない。
生きていく元である「酵素」は、食べ物から得たものをうまく利用したし、我々も生命体そのものだから、自分の細胞の中で作り出す力を持ってもいます。
生命体は長い時間の中で、酵素を獲得し過酷な環境に立ち向かって、進化を遂げてきたはずです。
ところが、20世紀急激に発達した物質中心の科学文明は、あらゆる生命現象、特に単純な生命体に対して実に過酷だったし、あまりにも鈍感でした。
土の中や水の中に存在する多くの種類の名のない微生物の存在など、まるで眼中になく、人間のエゴの追求のためだけに科学は邁進してきました。
「化学物質」はあらゆる酵素にとって大敵です。
酵素は「生命体の中で化学工業の触媒とよく似た働きをするもの」だから、他の化学物質に出会うことにより本来の触媒としての働きがまったくできなくなってしまいます。このことを酵素の「不活性化」とか「不活化」といっています。
ヒトや高度な組織を持つ生き物は、複雑な「酵素系」を持っています。
ヒトは複雑な酵素系のおかげで、毒を無毒化する酵素も中には持っています。
一応の安全試験を経た化学物質は、いきなり大きな影響は出難いが、一時的には無毒に見える化学物質であっても、単細胞、あるいは単純な酵素系しかもたないシンプルな生物では、酵素を不活性化させる物質によって、ひとたまりもありません。
そんなことから存在さえ知らないうちに、絶滅していった小さな生物も沢山あるに違いないのです。
特に地上の生物の大部分を占める土壌菌は、我々の食べ物を支える大切な仲間だが、化学肥料と農薬で、今や末期的な惨状を呈しています。
その結果、見てくれは立派であっても、作物や野菜自体の生命力が、ひどく弱体化してしまいました。
今や残留農薬ばかりでなく、豊富にあって我々の「生命力」を補っていた酵素、つまりその作物の「生命力」がまったく壊滅状態です。そのために、それを食べて生きる我々は「慢性的な酵素の取り込み不足」に陥り、生命力を急速に低下させています。
それ以外にも、我々は放出されたダイオキシン等の無数の公害物質、ありとあらゆる加工食品に添加された化学物質をいやでも取り込まざるをえないのです。
結局のところ、我々の酵素が更に不活性化して、全身の細胞単位の「生命工場」が瀕死の状態だといってもいいでしょう。
化学物質の増加とともに、原因を特定できない「不健康」が激増しました。
かっては細菌やビールスによる流行病や遺伝的な理由によるものが、病気の大半を占めていたものですが、難病奇病、あるいは説明のつかない半健康、未病で悩み苦しむ人々が、猛烈な勢いで増えています。
これらの半健康、未病は、細胞や組織の中の力(自然治癒能)が、著しく低下したせいなのです。
かっては「よく休む」「よく眠る」ことで修復されたものが、今はいくら寝ても回復できないでいます。
原料となる栄養が十分にあったとしても、「酵素不足」から、「生命工場」である細胞の「修復能力」が発動しないことに、大きな原因があるのです。
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