「熱気球物語・・・・熱気球の翔ぶ日まで」
日本で初めて熱気球が数機、わが上士幌町の上空に舞い翔んだ年から数えて今年は二十年目になる。
十年一昔と言うが、二苫前の熱気球が飛び立つ前後の様子をここに記録してみたいと思う。
当時、昭和四十年代の社会情勢は、国内に放いては高度経済成長期に入り、日本の将来は世界に羽ばたく勢いに満ちた活気ある時代を迎え、国民も勤労意欲に燃え、勤勉に働く民族として美化されていた頃であった。
それに対して一方では、スポーツやレジャー等に走る若者も増え、彼等に対する周囲の目は、冷ややかな見方が多かった時代でもある。
そんなある日、本州の私の恩師の紹介で、明年三月に帯広畜産大学に進学希望の学生が、一ケ月程、十勝の下見かたがた酪農実習をさせてほしい旨の依頼を受けた。
多少の不安もあったが受け入れすることにした。京都出身のその学生は呉服問屋の一人息子であると聞き、なぜ酪農に興味を持ったのか不思議でもあった。
彼が来宅して早々、「山羊と乳牛には、それぞれ乳首が何本ずつあるか?」と質問したところ、彼が答えに窮して返事ができなかった様子が今も記憶に残っている。その学生横井一博君が、わが家で過ごした期間の内容を述べる必要が無いであろうが万事、四苦八苦の連続ではあった。
いよいよ彼が生家に出発する時、近所の方より、石器時代の先住民族の使用した黒曜石の「矢じり」の発掘した一部を貰ってあったので、土産に少々持たせてやった。
彼の在学している同志社高校には考古学の先生が居るということで、北海道の先住民族の歴史が、どれほど古いかが解明されるのではなかろうかと喜んで旅立った。
結局、彼はそのような関係からか、同志社大学の考古学と環境学学部に席を置くことになったようだ。
それから、四年たった五月のある日、彼が突然来訪した。久しぶりの珍客なので其の後のあれこれの話を酒の肴に花が咲いた。彼日く、「これからの日本は環境問題を抜きには経済は語れない」等々の話しをしているうちに、今回釆町した理由は、今、国内に熱気球と名乗るものが十機前後あるが、恒久的に飛ばす塀所がない。そのため私の友人や妹が、ケニアやオーストラリアなどに出かけて飛んでいる現状であると訴え、もし北海道の広い大地にフライト基地が出来れば、これからのバルーン愛好者にとって、この上ない条件であると考え、この意志を伝えに来町したのであると、切々と述べた。
私も当時、初めて議員に当選させて戴いた時期であったが、ある町民の方より、「この町は、何か新しいことを実現しなくては進歩がない」と強い説教を]頁戴した矢先のことでもあり、私は、「上士幌でそのバノレーン基地なるものが出来ないだろうか」「若し実現できれば素晴らしいことではないだろうか」と、瞬時に強く実感したものである。
しかし、当時、酪農家は牛や馬を放牧か、つなぎ飼いをしていた頃であったので、初めて飛び上る熱気球なるものを動物たちは、どう受け止め反応するであろうか?
又、畑地に不時着した場合、農家の方々より激しい怒りを受けるであろうことは目に見えている。それに若しも、牛馬たちが、巨大な気球の上昇とガスバーナーの音に驚いて被害が出るような事態になった場合をもっとも恐れた。
ところが、彼の青年日く、「実はアフリカの草原で飛んだときのことだが、気球が着陸した周囲に興味ありげに野生の動物たちがぞくぞくと近づいてきて、人間のほうが師くなり、急いでゴンドラに身を隠して、彼等が立去るまで震えていたという話を友人たちから聞いたが、きっと牛や馬も同じでないだろうか」と熱心に語る。
実は後に実際の問題としていろいろ起こることになるのであるが、とにかく、やって見ようということになり、来年早々気球関係者と現地調査に来町したいということで帰宅して行った。
翌年の夏になって、横江青年が島本信雄君という青年と二人で再再度釆町した。彼は京都大学の場川秀樹博士の物理学教室の生徒でもあり、戦後日本では初めての熱気球の関係者であり、且つ製作者であるという。その二、三年後に日本気球連盟を設立したいと熱心に活動している人物であった。
さっそく、西風を中心に離着陸の場所の選定に町内の主な場所を調査することになり、まず離着陸を大規模草地とした場合、風の状態により最悪の条件の際は着陸地は足寄町の芽登方面まで延びるが、その付近に平地の牧草地があるだろうか−。好条件で飛んだ場合は北門小学校周辺となるが、牛や馬の放牧される時間帯はいつころか、また畑作物で反収が高いもの、安いもの、坪当りの収穫単価はどれほどになるか。更には高級作物と言われる小豆は坪平均何株程植えられているものかなどなど、実に綿密な調査を展開した。その結果着陸地として、もっとも被害が少ないのは牧草のXUり取り直後の草地ではないだろうかと一応は結論づけてみたものの、予定通り着陸出来ない場合とか、不時着した場合とか、それぞれ被害に対する補償の必要がある訳でその査定問題等延々と研究討議された。
しかしながら、いかほどあれこれ思案討論しても所詮予測予想の域は出ないが、ここ上士幌に砕いて起きた原因により失配することになれば、末長いフライト基地は望めない結果となろう。やるからには全力で成功を期したいと誓いあった。
その後、島本君は教授の道に進む多忙な時間を割いて、二度三度釆町し調査研究に打ち込んでくれた。
その間、新聞社が中標津、美瑛町近辺に気球フライト基地の検討がなされている旨の噂ニュースを流すようになった。私としては多少の困難があっても、将来、都市農村間の人間交流の機会として計り知れない効果が生ずること、並びに観光面からも将来的プラスとなる展望が期待されるであろうとも考え、この事業の実現に強く意を注いだ。
気球の発祥地はフランスであり、現代は空を航空機が制覇しすずらん・彗星・ハマナスているが、もとを質せば気球が先に空に挑戦したのである。当時、アメリカの一千機を筆頭に先進諸外国では、それぞれ四百〜五百機保有していると聞いた。
やがて、ここ上士幌の空にも外国機が飛び上るのも夢ではないと希望をふくらませつつ実現に向けて活動を展開した。ただし、マスコミ関係には、あらゆる調査を終了し、本町に決定するまで公表を保留するよう依頼した。
一方、それぞれの気球グループは、全道各地を飛び歩いているニュースが次々と発表されるようになった。十勝の川西、中標津、美瑛町の周辺で、基地探索飛行を繰り返している模様であった。
しかしながら、結局のところ、わが上士幌上空は飛行場空域からみて、いわゆるポケット地帯であることが大きなメリットであることが判明された。
早い話、飛行場より離れており、航空路から外れている地帯がバルーニストにとって絶好の場所ということになる。
このようにして、バルーン基地上士幌の青写真が概略見えてきたのであるが、残る問題は、フライトの時期・時刻、離着陸の場所、町としての受け入れ体制、予算問題等を、最終的に詰める段階に到って、またまた難渋したのである。
何分にも、当時町内には、私も含めて誰も気球のことを知っている人が居ない実情の中で、説明者の私も聞いた話を伝えて理解を得るために日夜時間を費やし、諸準備を進めることになつた。
まず、離陸時間は、搾乳の時間帯である朝七時〜八時前後に設定し、着陸地は牧草地の比較的被害の少ないXU取り直後の跡地に許可して戴くよう農家の皆さんにお願いすることにした。
また、来町バルーンチームの宿泊については、学生が主であるので、経費節約上、大規模草地入口の大雪山荘と旧児童会舘を利用して戴くことに決まった。
予算については、時の町長金野四郎氏が快く理解を示され、三十万円をゴンドラ輸送費として計上項いた。この助成については、私共関係する者にとって望外の喜びであった。本町における将来の子ども達にファンタチックな気球の翔ぶ姿を見て科学の目を開かせ、また観光面にも夢を与える効果があると判断され評価されたものと関係者もたいへん喜んだものである。
最後の問題は、はたして何機参加してくれるか、雨の日が続いたらどうするか、本当にこの上士幌の空に数機の気球がゆったりと、そして悠然と翔ぶのを見ることができるだろうか−。そんな心配が関係者にも、ましてや町民の方々にとってはなおさら一抹の不安となって、あちらこちらでささやかれたもので
ある。
いよいよ、新聞社や放送局も動き出した。離陸地は何処か、日時はいつかなど、数社から、しきりに問い合せがあり、先に述べた通り、北門小学校周辺に向けて大規模草地から離陸し西風に乗って飛翔することに決定した。
しかし、マスコミ関係は、より早く、より正確に、より鮮明に報道したいために、正確な離陸場所、並びに着陸位置、飛行気球数など、なお詳しい問い合せを求めてくる。気球の飛行は風まかせの面が強いので正確には伝えられない。「どうしてですか」との質問に私たちもそれ以上は説明できない。
明けて、昭和四十九年六月十七日何の北海道新聞の社会面に、気球の記事として初めて、「国内にある気球の大半を集めて、七月末に十勝の上士幌町で大会が開かれる−…熱気球とは、合成繊維製のマクワウリのような形をした球皮の下に人間の乗るゴンドラが付いているもので、ゴンドラの上部にはバーナーがあり、プロパンガスを利用して火を吹き上げ、内部の空気を暖め、その浮力で上昇するものである。その後は目的地の方向に吹く風と気流に乗って飛行を続ける。飛行時間は約六時間を見込んでいる。云云…」。
まことに大々的な記事であったが、事実と相違する部分が少なくなかったのは、お互いに初めての体験となることゆえ、やむを得ないものがあった。
再三答えた通り、目的地は確定できないこと、飛行時間についても、その時点の風の状態にもよるが、上士幌上空には、一時間前後しか滞空できないことなど連絡済みであったのであるが、十勝の大ニュースとして、およそ飛行機感覚で書いた記事であった。それらも今は懐かしい思い出ではある。
いよいよ七月末初飛行の日を迎えた。参加機数五機、明朝の初飛行について、バルーニスト並びに関係者全員の締密な打合せミーティングをするため、旧児童会館にパイロットを中心に集まっていた。
北国十勝の上士幌町上空に色とりどりの熱気球が飛翔する日が、ついにきた。皆さんの表情は明るい中にも緊張した心情が伝わってくる。
日本一青空の日照時間の長い上士幌、東大雪の山脈と、広い畑地が居辺台地へと続き、はるか東方に雌阿審岳、阿琴富士を望み、抜けるような青く広いこの町の空に五機のバルーンが悠然と飛行する風景は素晴らしいものであろう。
そのような夢の実現に向けてミーティングを進めている午後二時頃のことである。突然空が真黒になり、物すごい夏のにわか豪雨がこの町一帯を襲った。
一時間近く、たたきつけるような降雨が続いた。雨が通り過ぎて外を見るに市街地帯は被害が出るほどではなかったのであるが、後で入った連絡によると、山際地帯の大規模草地では、百年に一度あるかと思われる局地的大雨量を記録したということで、草地周辺の道路を歩いていた学生達が激流に押し流さ
れる危険にさらされたはどであったとこれも後で連絡が入った。草地入口手前の橋は流出し道路も各所で寸断された。
明日からのフライトを楽しみにしていた大雪山荘の宿泊者達も居住地を上音更公民舘に移転した。
HBCの大型取材車は、動きの取れないまま、仮役旧工事を待つはめになった。長い間の苦しい準備研究調査を経て、今まさに上士幌上空の青空を、ふわりふわりと鮮やかに漫歩しようと、こぎつけた矢先に出鼻をくじかれた天災であった。
勿論、各グループは一回でも飛んで帰りたいと願いをこめ、離陸地の変更をはじめ緊急に協議がすすめられた。
国内初の集団フライト実現を目前にした二十年前の歴史を刻む第一歩の、あの頃、あの日の忘れ得ぬ思い出である。
歴史的、第一回集団フライトは、どのように実現したであろうか−紙面も卑き、以下座談会へ続く。…
(町民文芸誌「ほむら」より)
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