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■ 士幌町の開拓
◆馬耕で成功した中士幌原野
 中士幌原野河岸幹線9号から21号までの123万坪は、美濃開墾合資会社が岐阜県から小作人を募集し、1897年3月、移民団43戸が集団入植した。これが士幌町域での開墾入植の始まりといわれておる。開墾は初め手作業で、苦労の連続じゃった。しかし、数年後には馬耕を取り入れ作業が進み、管内有数の農場となっていったのじゃ。

 1903(明治36)年、中士幌原野の23号以北と音更川を挟んだ中音更原野の一部を合わせて、100戸分(約500ha)が貸付された。1906年岐阜県の移住者4戸が入植し、その後も入植が相次ぎ「百戸分」と称されるようになったのじゃ。

 さらに1909年ころから寺や教育所を中心として商店街が形成された。「寺町」と呼ばれたものじゃ。

◆士幌駅から広がる、士幌中央地域
 士幌中央地域では1911年頃、西2線方面から開拓が始まり、次第に東の高台一帯へ広がっていった。音更川下台にあった教授場を1916(大正5)年、地域中心の西2線27号に移転し、北中士幌小学校となったのじゃ。そのころから学校周辺に寺院や商店が建ち、1921年、音更村から分村して川上村役場が置かれた。さらに士幌線鉄道が開通して士幌駅が置かれ、官庁、商店、事業所が集中して士幌市街が形成されていったのじゃ。

◆駅逓所から広がる、下居辺原野
 下居辺原野は1902年貸付が開始され、高島、利別方面から入植が続いた。開拓は奥地、高台方面へ広がっていって、1916(大正5)年官設居辺駅逓所が設置され、次いで寺院、拓殖診療所、郵便局、巡査駐在所が設置され小市街を形成していったのじゃ。



美濃開墾合資会社
 岐阜県人堀口庸五郎ら16人によって1896年に組織され、1898年大津港から、中士幌に入植した。現地は巨木の樹林地が多く、入植者はクワとオノを振るって開墾にあたり苦難を極めて帰国するものも多かった。

士幌線鉄道
 1922年着工、1925年開通。この路線は旭川までの北海道縦貫線の構想があったが挫折してしまった。開通は糠平温泉の繁盛と木材の搬出をもたらし、勢多水銀鉱、糠平電源開発、十勝三股の風倒木処理などで活況を見せた。自動車運輸の発展によりバス転換して幕を閉じたが、今でもその名残をコンクリートアーチ橋等で見ることができる。

駅逓所
 道の駅にあたり、馬の乗り継ぎや、宿泊所の提供を行っていた。開拓期において、不可欠な整備条件であった。