>
■ 鹿追町の開拓
◆下鹿追〜開拓の始まり
 クテクウシ原野(現在の下鹿追)に最初に入植したのは1902年の山田松次郎で、わずかの畑地にそ菜を作っておった。さらにヤマベ、マスなどを釣り、乾し魚にして清水、熊牛方面に売り歩く生活を送り、東京から来たことから「東京山田」と呼ばれたものじゃ。

 1906年、内閣馬政局が音更に十勝種馬牧場の開設を決定すると、先にこの地に入植し開拓に従事していた富山県江波団体が1909年、交換地に、クテクウシ原野に再び集団移住してきたのじゃ。

 1908年、現笹川の中島に飯田源作・勝次郎が入植、上然別に長屋藤兵衛、上重亀七、クテクウシ1番地に丸山浅太郎、ウリマク原野には1910年に横山源次郎、福井惣十、桜井宗吉が、美蔓に山崎平吉らが入植して、各地で開墾が始まったのじゃ。

◆交通施設の整備
 清水-鹿追間道路が開削されたのは1909(明治42)年で、1911年には音更-鹿追間道路が北15線まで測量を終わり開削が始められた。それまでの然別川は丸太で組んだ仮橋を人が渡り、馬、馬車などは浅瀬を選んで通行しておったが、1913年、25間橋と呼ばれた仮橋が、木橋ながら本格的な橋として架けられると、「鹿追橋」と名付けられ、初めて鹿追の名称が用いられたのじゃ。また、1913年にクテクウシ駅逓所、1918年にウリマク駅逓所、1923年に東瓜幕駅逓所、1925年には然別湖駅逓所が開設されていった。

◆鉄道駅に集まってできた鹿追市街
 鹿追、瓜幕の駅逓を中心に、また笹川にも市街地が構成され、郵便局医院、各種商店、鍛冶屋、料飲店、巡査駐在所も開設され、各地域ごとに学校も開校した。さらに神社・説教所なども造営された。1921(大正10)年4月1日、音更村から分村(戸数852戸・人口4,448人)して役場庁舎がクテクウシ1番地に開庁、続いて1928(昭和3)年、拓殖鉄道が開通すると、これらの市街地は駅周辺に移動していったのじゃ。現在では全くその姿を消しクテクウシ駅逓だけが、面影を残すのみとなったのぅ。



江波団体
 富山県砺波市の西島要次郎を代表とした団体。1897年、41人の移住団で大津に入港し、上音更、下音更、ペンケチン原野の開墾にあたった。「一戸ニ付百円以上ノ資金ヲ有シ勤倹ヲ守リ能ク開墾ニ従事セリ」(北海道殖民状況報文)と優秀であった。

駅逓所
 道の駅にあたり、馬の乗り継ぎや、宿泊所の提供を行っていた。開拓期において、不可欠な整備条件であった。

拓殖鉄道
 1931年完成。新得−上士幌間を営業した。1968年に経営の圧迫から廃止となった。