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■ 新得町の開拓
◆鉄道のマチ、新得市街
 1897(明治30)年、十勝地方を調査した村山和十郎は、北海道開墾組合を設立し、1899年に山形県の小作人13戸をパンケシントク原野に招き、開墾に着手した。1900年に同じ高崎村から第2陣として約100人が入地し、開拓が本格化したのじゃ。

 1907年官設鉄道十勝線の開設により新得駅が設けられ、道央から十勝へ入る玄関口となった。1910年に駅の近くに新得市街予定地が設定されたことによって、市街地としての形態が急速に整い、同年の新得市街の戸口は72戸、322人となった。1917年に国鉄新得機関区、同新得保線区が設置されて、鉄道のマチとしての基盤がつくられたのじゃ。

 一方、新得町から清水町にかけて広がるサホロ原野は、1900年頃から少しずつじゃが毎年のように入地者が続き、1907年には、上佐幌原野道路が開削され、以後急速に開拓が進んだのじゃ。

◆屈足市街のなりたち〜新旧市街がひとつに
 クッタルシ(屈足)原野は1902年に鹿児島県から上原善之助ら7戸30人が、最初の和人として入地した。1912年には水稲が試作され、1914(大正4)年屈足土功組合、1916年上川土功組合の設立によって造田が進んだ。

 1921年に十勝川上流部の木材輸送を目的として新得-岩松間に馬車軌道が敷設され、1927年には私鉄北海道拓殖鉄道が新得-鹿追間の営業運転を開始し、当地域内に屈足駅が設けられた。これによって駅周辺に市街地が形成され、ここを新市街と呼ぶようになったのじゃ。これに伴い、大正末期に屈足22号周辺に形成されていた市街地を旧市街と呼ぶようになったのじゃ。

 第二次大戦後、十勝川上流部の電源開発の進展に伴い、市街地の人口が増加し、新市街、旧市街の区別がなくなり、一つのまとまった市街地を形成するようになったというわけじゃ。

◆新内地区〜石材を求めて
 ニュンナイ(新内)原野の最初の入地者は1901年ころ、狩勝トンネルなどの鉄道工事に使う石材を求めてやってきた岩手県人の関新太郎じゃった。関は1903年、13戸の小作人を招き、新内地区の開墾に着手した。1907年国鉄新内信号場が設けられ、1909年新内駅に昇格し、明治末期には駅を中心に市街が形成された。新内駅からは、山から切り出された木材の輸送が盛んに行われたものじゃ。

 気候が冷涼なため、農作物の生育には適さず、このため早目に見切りをつけて離農する人も多くいたのぅ。1929(昭和4)年官設新内駅逓所が設けられ、郵便の集配、旅人の宿泊所として利用されたものじゃが、1938年限りで廃止されてしまった。



村山和十郎
山形県東根市生まれ。新得町を開墾した北海道開墾組合の中心者。人舞郵便局(現清水郵便局)初代局長を務める一方、新得開墾の後見人として、厳しい生活を余儀なくされている入植者たちの食糧確保を図り、西部十勝開発に大きく貢献した。

十勝線
1887年に建設が始まった。最大の難関は狩勝峠で石狩と十勝の両側から狩勝トンネルを掘削、1897年に完成した。

拓殖鉄道
1931年完成。新得−上士幌間を営業した。1968年に経営の圧迫から廃止となった。