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十勝の農業は日本を代表する畑作・酪農地帯

 約26万haの広大な農地に約7,600戸の農家が大規模機械化農業を営んでいるんですよ。

 今日までの約50年の間、十勝の農業が生み出した生産額は累積すると5兆円にもなります。これは、農家の方々の生産性向上に対する努力、効率的な作業を可能にする大型機械の開発、良質な品質の農産物を作り出すための研究者たちの努力など、全てが総合されて今日の姿なっているんですね。
 昭和26年当時の十勝管内の農地は約17万haでありましたが、農業の基盤である農地の整備、排水不良の農地の改良などを通じて現在は約26万haに拡大してきました。

平成11年の十勝における生産量は馬鈴薯は約26%、てん菜は約46%の生産を担っています。十勝の農業は毎年2千億円を超える農業粗生産を生みだし、地域経済を支える主要な産業であるとともに、国内の食料確保に重要な役割を果たしているのです。
 また、十勝の農村風景は貴重な観光資源として、毎年多くの人が訪れる場所となっています。近年はファームインを営む農家が増え、農業体験を通じた家庭教育や学校教育が盛んに行われたり、自家製の加工品を販売する農家も増えて、若い後継者のアイディアや感性が農業経営に発揮されています。
十勝の農業は、食料を生産する場としてだけではなく、その多面的機能を活かす場所となり、若い人がイキイキと働ける場所になりつつあります。


十勝の景観を魅力は、農業 〜なるほど、ひとくち情報

「豆類に最適な産地なんだ
 開花〜登熟に至る適温と収穫を迎える秋の気象が晴天に恵まれるため、収穫・乾燥・脱穀・調整作業が順調に行われるなど、特に小豆にとっては世界一の産地と言えるのではないでしょうか。

「小麦の風景」
 畑作物の中で最も機械化・省力化が進んでいて、大規模機械化農業に適しているため広く作付けされています。
 収穫期間の7月後半から8月にかけて畑一面が黄金色に染まり、穂が風に揺れる様子はうっとりするほど繊細なものです。さらさらと穂先が触れあう音色が聞こえてきそう。

「作物のお花畑」
 園芸作物ではナガイモ、ダイコン、ゴボウ、ニンジンなどの根菜類が作付けされています。
 十勝を代表する農産物のジャガイモ。7月には広い畑いっぱいにきれいな花を咲かせ、花見をするほど。メークイン・男爵は紫、農林一号は白い大きな花など、品種により花の色が違います。

「牛さんの話」
 日本で牛乳を生産しているのは主にホルスタイン種です。この牛さんがおいしいチーズやアイスクリームを私たちに食べさせてくれるんですね。

牛さんの「歯」

 下の歯は計20本、前歯(門歯)は8本あって、これが草を切って食べる役割をしています。奥の左右には、それぞれ6本あり犬歯はありません。上の歯は奥歯左右6本づつであとはないので、口を開けた時に上の歯がないように見えます。牛さんは虫歯ないのかな‥‥?

牛さんの「足」

 一般にひづめのある動物はたいてい走るのが速いといわれています。普通、のんびりしている牛も、いざという時、相当速く走れるのです。でも、長くは続かず、またマイペース君に‥‥。

牛さんの「健康チェック」

○体温38.5C(人間は36.5C)
○1分あたりの呼吸数10〜30回(人間は18〜20回)
○1分あたりの心拍数60〜70回(人間は70〜80回)
○1日に飲む水の量、親牛60〜70リットル、若牛15〜20リットル
○一日にする尿量 親牛 10〜25リットル


十勝農業のおいたち
明治16年 開拓団「晩成社」依田勉三入植により十勝農業の基礎が築かれる
 この開放以前、 明治16年(1883年) に、静岡県加茂郡の依田勉三を中心とする「晩成社」が開拓団を組織して帯広に入植し、十勝川流域の沖積地から開拓は始まったのです。
 明治30年代に入って次第に周辺の台地にも及び、瘠薄な火山灰土の不利な条件を克服しながらも、今日の十勝農業の基礎が築かれたのです。 明治30年(1897年) に福島県から豊頃村に入植した二宮尊親ら「興復社」もそのひとつでした。

 明治40年(1907年) に道央との鉄道が開通して農作物輸送が円滑化され、さらに新しく移住してきた人々によって、飛躍的に開拓が進めらていきました。

農家経済好調期〜
 大正3年(1914年) から始まった第1次世界大戦の影響で農作物は高騰し、豆類の栽培面積の多かった十勝は菜豆、えん豆による゛豆成金゛で、農家経済は数年間潤いました。
 しかし、その後間もなく戦後恐慌が勃発し、農作物価格の大暴落によって離脱する農家もありましたが、この試練を乗り越え入植者の増加、更には産業組合の設立など、大局的には農業発展の時代となりました。

戦時中 農家経済の悪化〜
 昭和4年に世界恐慌が始まり、5年の豊作による農作物価格の暴落、続く昭和6〜10年の冷害凶作によって、またも農家経済が悪化します。これに対処するため、従来の豆作偏重を改め、乳牛、馬、小家畜の導入による有畜農業への転換、根菜類と夏作物(亜麻、えんどう)の採用、優良品種の普及と適地適作経営への転換、農産加工の普及、資材の自給自足など、農業全般に対する改善が打ち出されたのです。
 やがて、12年からの日中戦争、16年からの太平洋戦争に突入し、戦域の拡大と長期化から、従来の換金作物は作付の制限を受け、これに変わり麦類、とうもろこし、馬鈴しょ、てん菜、亜麻、牧草などの作付増加と馬の増産が義務付けられました。8年間の戦時中は労働力、資材の不足によって略奪的農業を余儀なくされ、農業はかつてない壊滅的な打撃を受けたのです。

戦後 冷害の少ない十勝農業確立への農業転換期
 戦後における国民の飢餓を救うための重責を農民が負うことになります。それは、緊急開拓計画による新規開拓農民を加えて食糧増産に励むものでした。
 昭和30年代には、所得倍増及び高度経済成長政策による農業と他産業との所得不均衡の拡大や、農家戸数の減少と、目まぐるしい変遷の中で、農業の近代化を目指す酪農振興法に基づく集約酪農地域の指定や構造改善事業が打ち出されます。
 冷害の少ない十勝農業確立のため、根菜類の作付奨励など、安定作物への転換を図り、酪農経営への転換期となったのです。

昭和40年代〜
40年代に入ってから、更に高度経済成長政策、後継者問題による農家の減少をたどる中で、海外の農業に対応できる十勝農業確立のため、土地改良、基盤整備、農地及び、草地造成による経営規模拡大と飼養家畜の多頭化、経営の近代化が必要とされるなど、総合農政推進の時代となります。
 十勝の農業は、広い耕地など自然環境に恵まれ、豆作を中心に発展し、戦後の昭和29年には豆類の作付が耕地の67%まで増加しましたが、たび重なる冷害凶作を機に、豆作偏重農業から体質を改善し、わが国の代表的な畑作・酪農地帯として大きく発展し、食糧基地として、その前途は大きく期待されていました。

平成5年の農作物は記録的な低温寡照による異常気象が成育を阻害し、豆類などに被害を与え、農家はもとより地域経済にも大きな影響を及ぼしました。一方、我が国の農業は日本経済が低迷するなかで、農畜産物の輸入自由化等国際化が急速に進展し、管内的には農村の過疎化、担い手の減少、高齢化の進行、また平成7年には収穫期の大雨による小麦穂発芽の多発など労働力確保等の課題を抱えながら厳しい情勢となっています。
 しかし、畑作・酪農・畜産を柱とする十勝農業の単位当り生産性は国際的に最も高い水準にあり、全国で最大の経営規模を誇るほどになっています。21世紀に向け、十勝の気候・風土に根ざした豊かで活力ある農業、農村づくりが今進展しています。

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